ネガティブハッピー・チェーンソーエッヂ 感想 ※バレ含

 

 

面白かった。

 

現実を受け入れた、というよりは現実に妥協した物語(あえてネガティブな意味合いに取られそうな言葉を使用した方が適切だと感じる)。

 

"何か(大切な-人物or行為or感情/意志)"を失った人物がその欠落を受け入れるという筋書き自体はいかにも正統派なのだが、人生の幸福を求めるというものではなく、人生の退屈さ・不毛さを許容しながら生きていくという方向性に着地している(と思う)のが興味深い。

 

この手の物語の最後で少年と少女がくっついてラブラブになると、結局どんなに斜に構えたキャラクターでも、世間的な価値観(=リア充)にのっとったやり方で幸福になっちゃうんだねぇなどと「結局論」のコメントが漏れそうになるのだが、本作品の少年と少女がそうした一般的な幸せを実感できる保証は無いという、そんな空気感に仕上がっている(エンタメ的な都合なのか、少女から少年への好意はやや過剰に描写されているが)。

 

チェーンソー男との戦闘という現実離れした出来事が起こっても、最終的にはそうした刺激はどこかに消えてつまんねー日常に戻って来てしまうということが、後ろ向きに示されている(ただし、主人公は逆張りオタクじみた(パンクな)精神で、あえてそれをポジティブに受け止めようとする)。

 

無力な人間が、具体的では無い「何か」と対峙し続けることを選択する物語と言うこともできるかもしれない。でも作中の温度感的には、最初に書いたとおり「妥協」と表現するほうが丁度いいのかなと思う。

 

ところで作中既に亡くなっている親友にしてキーパーソンの能登についてちょっと書きたいのだが、「ウォッチメン」のネタバレに触れる形になるのでご注意願いたい

(まだ「ウォッチメン」を知らない方は、是非マンガで読んで欲しい。映画では不十分)

 

 

 

他作品を例えに出すのは一部の人にしか伝わらないので、安易な内輪パロディ並に下劣な行いになってしまうのだが、作中で「怒り」すら感じずにダッセエ妥協を行う人間のやりとりを見てしまった能登がバイクをぶっ飛ばして自殺するくだりは、「ウォッチメン」のロールシャッハが、"世界最高のヒーローが(最低最悪の事態を防ぐために)『妥協』して出した結論"を受け入れることもできず、かといって妥協しなければより最悪の事態が起きることも知ってしまい、涙を流しながらマスクをとって(=ヒーローであること、ロールシャッハであることを捨てて)「殺せ!」と絶叫するシーンに重なるものがあり、どうしてもロールシャッハのことを書きたくなってしまった。

 

ロールシャッハは、かつてはマスクをかぶっただけの人間(=ウォルター・ヨセフ・コヴァックス)としてヒーロー活動を行っていたが、ある時人間社会そのものに強く絶望させられる事件が起こってから、どのような時も妥協せず悪を裁く「ヒーロー・ロールシャッハ」に目指めたという経緯がある。ところが、そのような生き方が全く通用しない現実にぶちあたってしまい、「ヒーロー」をやめると同時に「人間」として死ぬことを選択する(最後に残ったヒーローとしての矜持/最後の希望が打ち砕かれたためと解釈している)。

 

俺はどちらかといえば、そういう場面ではダラダラ生きながらえて、テキトーに生存理由を探す方を選択してしまうタイプという自覚があるので、妥協できない現実に対して死を選択するほどに強い意志や方針を持つ人物には(実在・非実在問わず)憧憬の念をいだいてしまう。

 

最後は内容とは全く関係ない話だが、解説が西尾維新で、「うわっ文章の内容が戯言書いてた時の西尾そのまんまじゃん!」と笑った。