感想:劇場版 GのレコンギスタⅠ~Ⅴ / スキップとローファー / ガレリアの地下迷宮と魔女の旅団

 

 

■劇場版 Gのレコンギスタ

 

 

満足度○

 

TV版の感想は2年前に書いた。

zumasawa.hatenablog.com

 

監督いわくTV版のわかりにくさを猛省したとのことで、劇場版G-レコではシーンの追加や変更によって作中世界の状況や登場人物の心情がわかりやすくなった。

 

TV版を「必要以上に説明的な演出をしないどころか、必要最低限と思われるピースの一部をあえて外しているから逆に惹き込まれる。これは誘導の匠」とかウンウンうなずきながら視聴していた俺がアホなだけだった事実が露呈したが、そういうスタンスで見ていたのでベルリの心情の答え合わせを拝むような体験ができたし、年月が経過すると作中世界に関する知識も霞んでくるのとあわさって新鮮な気持ちになれた。

 

もともと人々の日常や会話の描写が秀でていて、そういう情景を眺めているだけで満足度が高い作品なので、劇場版では会話シーンの拡充を歓迎して鑑賞できた(「ジャベリンありがとうねえ」とか「お湯のシャワーなどは使えなくなる」あたりがオミットされたのは残念だが)。会話シーンも登場人物が細やかにアニメーションするし、その動作から作中世界内での習慣や意図、テンションが把握できるようになっている(頻繁に給水しているパイロット達の様子とか、最序盤でベルリに嫌味謎ダンスするアイーダとかが顕著)。

 

 

個人的にいいな~と思ったのはⅣ冒頭の、メガ・ファウナのクルー全員?でのランニング後、裸のメタボ中年男性(艦長)が着替え中の少女(ノレド)の部屋で着替えようとして追い出されるシーン。G-レコは今の時代の感性に寄り添おうとしつつも、厳格なコードで人々の立ち回りが縛られる点はできるだけ避けて軽やかに在ろうとしているような作品なので、明らかにヤバすぎる絵面になっているのにぜんぜんイヤなくさみがない。もうこの頃になるとメガ・ファウナのみんなは疑似家族的な関係が強固になっているから5分もしたらお互いケロッと忘れて次のご飯のこと考えてるんだろうなあ~とか、ノレドは作中でバリバリの人種差別を受けても楯突けるようなタフさを兼ね備えているから艦長だろうと裸中年男性を部屋から追い出してあっちに行けや!できる気概があっていいなあくらいの気持ちでほっこりできてしまうのがスゲエなと感心した。

 

G-レコのMSに関しても言及すると、メカデザインは好きだけど戦闘とかはそれほど興味無いよ派だったが、G-セルフの”瞳”が書き込まれたことによって更に凄みや不気味さが増しているのはとてもよかった。

 

G-セルフって正面の静止画だとなんかコミカルな外見をしてるんだけど、映り方がちょっと変わるだけで瞬間的に無慈悲な殺戮者のようにも見える。そういう印象があったのだが、この”瞳”の追加によって、従来の描き方ならただ単にコミカルな見た目でおさまっていた映り方でも底知れなさが醸し出されるようになっている。

 

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それからやっぱり歌が良い。

 

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もともとエンディングテーマの歌詞が作品のテーマというか方向性をバッチリ示しており、G-レコの魅力の3割はもうこのエンディングテーマだけで担ってるだろくらいに好きだったのだけれど、Ⅳではこの『Gの閃光』と背中合わせのような新楽曲が使用されている。

 

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これ最初劇場で聴いた時は『Gの閃光』のリズム印象が強すぎてあまりノれなかったのだが、すぐに馴染んで再び爽やかな良曲をくれてありがとうとよろこんだ。

Ⅴを〆る曲はもちろんドリカム『G』だったのだけれど、俺的にはこの『カラーリング バイ G-レコ』でも良かった気はする。でもスタッフロール後のアレを見せられると、『G』→アレ→映画館の帰り道に『カラーリングバイ G-レコ』を聴くが正ルートのようにも思える。

 

あと、劇場版を経て『ふたりのまほう』も更に味わいが増した。

 

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キャッチーな『BLAZING』も好みだけれど、G-レコに似合うのはこういうテイストだなあと。

 

作品のテーマとか...に関しては、いろんなメディアが富野監督に対するインタビューであまりにも語らせすぎ、掲載しすぎなレベルに達しており、もはや個人ブログですらわざわざ書く意味は無い。さすがに映像作品という形態なのに中身のうちのテーマのほとんどをそのまま言葉にさせて載せちゃうのはまずいだろってレベルの記事も見かけたほどだが、これは富野監督が大御所かつ高齢なのもありインタビュアーが張り切りまくった結果なのかもしれない。

 

TV版で俺の大きな不満だった「いや最後それは作品のテーマと噛み合ってないでしょ!男の子の世界に籠もっちゃってるでしょ!」なポイントが劇場版は見事に解決されていたのでかなりすっきりしたし、TV版ファンとして観て損は無かった。

 

■スキップとローファー

 

 

 

良い。

 

自分の嗜好としてフィクションに出てくる善人は好きだが、コテコテの人情噺になると関心が薄れるというものがあるのだが(ハギオグラフィーは趣味ではない)、不思議とめんどくさい読者特有の反応をすることもなく、素直に読み進めることができた。構成力が優れているからなのか、大筋はベタないい話寄りなのに俺ももうちょい真っ当な生き方をするかあと素朴に思えてしまうほどには引き込まれた。

 

ところが、雑誌掲載分の最新話付近では完全に作品がフェーズ2に移行したオーラが出ておりまた別の味わいが出てきた。

 

クラス替えを機に幸せな世界を前提とした善人の脆さ、善の儚さがこれまで以上に強調されはじめ、暖かな世界が揺らぎはじめ、みつみもまたその最中に晒されている。GRAPEVINE『GRAVEYARD』よろしく、”無駄に垂れ流す言葉はもう腐ってる 揺らいだ世界で一人立ってる”こんな状況が俺の性癖には見事に直撃しており、今後の展開を非常に楽しみにしている。

 

 

 

氏家くんのこの指摘鋭すぎるな

 

 

 

■ガレリアの地下迷宮と魔女の旅団

 

 

ストーリーはまあまあ楽しめていたが、その感触さえもゲーム性の崩壊によって後味が悪くなってしまった。

 

前作『ルフランの地下迷宮と魔女の旅団』と異なり、今回はストーリー性はほぼ完全に地上側パートに委ねられ、ダンジョン内での物語は発生しない。

 

これ自体は序盤は問題無く機能しており、適度に歯ごたえがあり探索し甲斐のあるダンジョンの開拓がゲーム性を担保しつつ、一通り目的を達成して帰還することで先が気になるストーリーが読めるようになっている。本当にこれはいい棲み分けだとかんじていた(ルフランは地上側ストーリーパートが盛り上がるまでに時間がかかっていた)。

 

ところが中盤以降、ゲーム性の根幹を担うダンジョンパートが急速に朽ち果ててしまった。ランダム生成のコピペダンジョンが延々と続いていくのには流石に辟易したし、そのような環境下で人形兵達のレベリングや魂写しなどの作業を黙々とこなさなければ強敵が打倒できないのもなかなかこたえた。

 

高校生時代、一ヶ月ほどとある小規模なゲームメディアで見習いライターをやらせていただく機会があったのだけれど、そのときの編集長の言葉を思い出した。いわく、「面白いとされるゲームにも作業要素は存在するが、いわゆる良ゲーでは、作業さえも、面白さを生み出す枠組みの中に、巧みに組み込まれている。だから良ゲーは作業を作業と認識し辛いようになっている」。ガレ魔女は残念ながらそのようにはいかず、ストーリー進行のためだけに激渋ランダムドロップ素材をかき集め、完全な手抜きダンジョンを必死でくぐり抜けていった最後に繰り出されるラストダンジョンの階層数に愕然とした。

 

おそらくは納期等の関係で作り込みが終わってしまったのは明白だが、それが肝心のストーリー面においても垣間見えるのは大きな問題だ。特に終盤で明かされる真相の中で急に放り込まれる、とある2人についての新情報は、その過程がサッパリと省略されたのだとすぐに察してしまえるような有様になってしまっている。そしていちいち作業に忙殺されるせいで、小出しに提示・解明されていくストーリーの謎が記憶から飛んでしまい、肝心のストーリーも味わいが薄れて、ニーナ・コルベールやマダム・マルタのエピソードを最後に特に響くものは消え去っていった。

 

ED後のユリィカが芳しい結果を得られることは無いだろうという確信、魔女百経験者以外あの外道魔女化っぽい描写があるシーン伝わらなくね?という疑念等、言及したい点は色々あるが、ゲーム性のチューニングにここまで失敗しているケースはあまり見たことがなく、故にたいていのことは間に合わなかったんですねえで片付いてしまう。なんだかんだストーリーはかなり見どころがあったし、せめてラスダンの階層数が10分の一だったらなあとコメントして終わりたい。

 

あと、キットカットの解説のおかげで魔女百の裏花・トーラスの意味がわかったのは良かった。

 

特に「世界樹の一族」「カカリマ」あたり、魔女百ファン的にはかなり関心を惹かれる要素が詰まっていたが、数多世界の似通う存在になる設定がファジーに便利すぎるので好奇心を手放すことにした。大魔女ウルカって一体...とか考えなくもなかったけどメタリカの存在と力がぶっ飛びすぎてる都合で、ユーザー側では答えにはたどり着けない気がする。