スパイダーマン ノー・ウェイ・ホーム 感想

 

スパイダーマンの宿命と呪い

これまでトム・ホランド版のスパイダーマンにはそれほど興味を惹かれていなかった。すでに語られ尽くしたが故にシリアスな物語としての効力を失いつつあるベンおじさんとのエピソードはさらりとオミットされ、アベンジャーズが確立された後の参戦ということもありトニーやハッピーらの最新テックによるサポートを受けることができ、たくましく美人すぎるメイおばさんが支えてくれて、親友も恋人もいて、未熟だが誠実な心を持っている少年が困難を克服していく。

 

従来のいかにもスパイダーマンっぽい過度なヒロイックさは抑えられ、常に一定の軽快さを保たせる手法には、これが現代の感覚的に望ましいスパイディ像なのだろうと納得こそすれ、俺の好きなスパイダーマンでは無いという距離感があった。だからファー・フロム・ホームでピーターが大いなる責任を他人に押し付けようとしたせいで発生した大事件を目にしたとき、もうこの先は見なくていいレベルのシリーズなんだな程度の印象になっていた(予告の過去シリーズ要素によって結局引き戻された)。

 

今作はファー・フロム・ホームから続いて少年の年相応に軽薄な選択が世界を、周囲を悪い方向へ動かしてしまう構造で、ピーターは前作に続いて『責任』の請け負い方を問われる。

 

たとえばMJとネッドの入学の嘆願に成功するシーン。偉い人の了承が出たのはオクの襲撃をピーターが防いだからだが、そもそも襲撃事件が発生した原因がピーターで、ひどいマッチポンプになっている。しかしピーターはそこに葛藤することなく、またついでに自身の合格も許されたことを甘受し、無邪気によろこんでいる。またMIT行きが確定したらNYでのヒーロー活動が難しくなる可能性が高いが、その点については他ヒーローが存在するバースということもあり特に考慮していない(これは新スパイダーマンの良い点)。まあトム・ホランド版最初のスパイダーマンとか、アベンジャーズの存在もあってNYめっちゃ平和で仕事無かったもんな。

 

ピーターの意思決定は、ある時点まではコミカルに描写されている。メイの影響を受け衝動的にヴィランらの帰還を停止させたが、具体的なプランは用意しておらずその場で作戦会議をはじめる。ヴィランらを避難先の建物へ誘導するがハッピーには情報共有せず、唯一敵対的なオクのアームを封印しているし他のメンツもおとなしいから問題無いだろうと弛緩しきっている。

 

スパイダーマンシリーズはこうした緩さを持ち合わせつつ、いざというときは己を律し誠実に行動するという緩急で構成されてきたが、今作では少年の年相応で、未熟で、楽観的で、しかし結果的には丸く収まる──そんな”いつもの流れ”がグリーンゴブリンによって断ち切られ、ノー・ウェイ・ホームによってこれまでのトム・ホランドスパイダーマンの軌跡が、全て新たなスパイダーマンのオリジンとして綺麗に収斂された。これには驚いた。

 

家族、恋人、友人、スターク由来の超ハイテク機器によるサポート、学業成績に至るまでの全てをリセットすることで責任を償い、遺されたミシンでスーツを繕い、”いつもの部屋”から雪の中に飛び出していく、少年ではなくなったピーターは美しい(そう感じる俺はかなりキモい)。

 

これこそスパイダーマンだ!と頷く気持ちが脳内のほとんどを占める中、でも結局こういう流れに至るのはもはや制作陣とファン双方の呪縛みたいなもんだよな...という気持ちがちらついてしまった。

 

今は初めてトム・ホランドスパイダーマンの次作を楽しみにしている。

 

スパイダーマン過去映画ファンへの最高のご褒美

幼少期や少年期に親しんだ作品で描かれた物語の”最高のその後”を、いい年をした大人になってから味わう...というような体験はこの映画が人生初かもしれない(”最悪な”その後の例をここに書き連ねかけた)。

 

ガーフィールドのカムバックも勿論嬉しかったが、俺にとってのベスト・スパイディであるトビー・マグワイアがスクリーンに登場したときの興奮たるや...。。

 

人畜無害な一般人オーラ全開で微笑みながらリングをくぐってくる +30点

外見でヒーローとは思われず、積極的に正体を明かさない +10点

スーツどうすんの?と聞かれて一般人オーラバリバリの私服の下にしっかりスーツを着込んでいるのをチラ見せ 何気ない動作がヒーローとしての常住戦陣精神を一瞬で伝える +80点

一番の強敵を尋ねられるが「数が多すぎる」とやんわり返す 歴戦ぶりが伝わる +30点

 

加点に繋がる描写は数え切れないが、大人の事情も年齢的な問題も全てはねのけた、良い夢を見せてもらった。

 

 

■<治療>

本作で集められたヴィランはいずれも本来は善性を持ちながら、偶発的な要素によって凶暴化したという出自を持つ。そんな彼らの人生を狂わせた異能を消し去り、<治療>することで死の運命を回避”させてあげられるのでは”という割と傲慢な展開(ディズニーっぽい!)

 

ヴィランらが自らの選択の果てにたどり着いた結末を「哀れ」として否定し、<治療>によって救済するやり方には抵抗を覚えた。結末は変わらないからこそ尊く、墓を掘り起こしてまで<救済>を実行するのはやりすぎな印象(全く望んでいない凶行に走らされていたオクトパスやノーマンは除く)。メイおばさんの絶対的な善性をピーターが受け継ぐ様子は良かったものの、倫理観は環境に左右される/依存しているものだし、ヴィランにはヴィランの思想があって、異能の剥奪がそのアイデンティティーにまで及ぶのなら、一度は彼らの承認を得るような展開を経ないと、若干ディストピアっぽく映ってしまうよなあとモヤモヤしていた。

 

ヴィランらの中で異能獲得による人格改変がそれほど強くなかったのはエレクトロとサンドマンの2人、そして元々力だけを信奉し、残忍な性格として誕生したゴブリンの3人。ゴブリンにとって、<治療>は文字通り”魂の殺人”。サンドマンは元々ガチガチの犯罪者で、娘のためにを連呼してごまかしているがベンおじさんを殺害しており、能力の治癒自体は彼の意志には(肉体的な影響はさておき)あまり関係しない。最後に残ったエレクトロは、少なくともはじめは発作的に凶行に及んでいたにすぎず、作中でも葛藤する描写があった...とはいえ、最終的に暴力行使の継続を選択したのはまぎれもなくエレクトロ本人の意思だったはずだ(俺は字幕で鑑賞したが、吹替版だと能力喪失後、マックスの一人称が”僕”に戻るらしい)。

 

しかしピーターがやはりゴブリンを許せず本気で殺そうとした展開や、暴力を信奉し、秩序と見定めているゴブリン(自由意志を持つ1人格)が始めから<治療>を<去勢>だとして否定したり、(善性ゆえに)ヴィランらを一切拘束しなかったが故にエレクトロがアイデンティティーの防衛(=能力の保持)を選択できた様子、メイとの約束を忘れて己を暴力で殺害しようとするピーターを肯定的な哄笑で迎える様子等の描写が、(ディズニー的な)絶対的な善政の居心地悪さをほどよく抑制してくれていた。

 

ゴブリンは死ぬまで闘うことを望み、そのように事態を運ぶことに成功し、<治療>の過程が己の意志に沿っている(闘争で敗北し、自分より強いものに生殺与奪の権利がわたっている)。ゴブリンがいなければ、トム・ホランドスパイダーマンの誕生も、夢の舞台での共闘も実現せず、鑑賞中の居心地の悪さの軽減も無かった。もしかするとゴブリン映画だったのかもしれん(勢いだけで書いている)。