シャニマス 天塵の感想

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非常に素晴らしかった。

 

俺は近年のモバマスデレステやらなんやらで引っ掛かっていたことがあった。

それは大雑把に2つ挙げられる。

 

1つはフレンドひふみさんが言う「無限の関係性」。

 

シンデレラガールズもSideMもニワカなりにかなり面白かったんですけど、少なくともこの2つのタイトルで物足りないと思ってたものがあって、どの話も個人の抱えていた問題を解決した後と、ユニット単位での問題を解決してしまった後の話がどうしてもインパクト薄くなっちゃって、その後はただ無限の関係性が描かれるだけになっちゃうんすよね。最大の特徴と最大の伏線が回収されてしまうわけだから当たり前なんだけど。

マルチゲーマーで行こう 「軍団ストレイライト」より

 

これはアイマスに限らない話だとおもう。キャラとしての"伸びしろ"を消費しきったキャラクターが、ただほかのキャラクター同士と無限に絡みながら現状の延長上を漂い続けるようになるという事象。

 

 

そしてもう1つが「アイマス文法」だ。キャラクターの経験するすべてがアイドルとしての成長に接続されてしまうことをそう呼んでいる。余談だがこれは本当に個人的にそう呼んでいるだけであり、ぶっちゃけ俺はアイマスというくくりを語れるほどの修練を積んでいないのでこの呼称は今後変える可能性が高い。

 

 

精神的な葛藤。試練。アイドルとして圧倒的成長して打開。アイドルとして自己実現に成功。自分を認めてくれるファンの皆さんに感謝。これからもっと頑張ってもっと素敵なアイドルになります。見ててくださいプロデューサー。Pに対しての個人的な好意。ユニットだいすき。

 

アイドルを題材にしたコンテンツなんだからすべてが"アイドル"に集約していくのは当然ではあるが、モバマスなどを触っていれば誰でもすぐ見飽きた光景になる。

 

ひふみさんの言う無限の関係性が結果が出た後にやってくるものだとするなら、俺の言うアイマス文法は結果が出るまでの過程にあらわれる。

 

シャニマスに本格的に触るようになったきっかけは、そういった部分とは関係なく只々突き進んでいくあさひに惹かれたからだったと記憶している。

 

 

 

 

ある日、浅倉透が出現した。

 

 

浅倉は運命の人と共にのぼれるならぶっちゃけ別にそれがアイドルでなくたっていいタイプだし、アイドル活動もあまり学校と変わらないねと言ってのけるし、共通コミュは専らプロデューサーとの絡みに終始しており、アイドルとして~みたいな話に接続されない。

 

それでいて[10個、光]のようにハッとさせられるような突然世界に光を差し込んでくるかのような物言いをする、天性のカリスマ性で自然と周囲に人が集まってくるような性格なのだから凄まじい。

 

樋口はPに対してガチガチの愛憎(どちらも切り離すことはできない)を抱えてはいるものの、共通コミュの中でアイマス文法へと吸収されていった(だが、その過程にある容赦ない剪定が描写されていることで一定の緊張感が担保され続けているのが個人的には高評価ではある)

 

小糸にはハードなバックボーン、崇高な意思がある。

 

雛菜はかなりユニークだが、既に芯の強さ=自己完結度が高い。

 

いずれにも強く惹かれるものの新鮮さでいうと

浅倉>>樋口>小糸

別枠:雛菜

 

くらいの印象だった。

 

そんなんだったんで、天塵が始まってもせいぜい浅倉が財布忘れたコミュが二次創作界隈で異常にイジられて万事ボケキャラみたいに扱われているから、そっち側へ寄っていくような展開だけはしないといいなあくらいにしか思っていなかった。

 

きっとこんなに素晴らしい彼女達もいずれはアイマス文法に飲まれ、やがて無限の関係性へと至ってしまうのだ。そう思っていた。

 

 

ところが天塵ではアイマス文法が最後まで機能しなかった。

 

可能な限り譲歩してもそれ以上に醜悪な現実を見せつけてくる悪質な大人に自分"達"がとことん軽んじられていることを思い知らされた浅倉は、アイドルとしての今後を一切考慮せずかろやかに反抗してみせる。

 

もちろん業界・世間双方から大バッシングを受けて干されてしまう。

 

しばらくしてようやく見つかった次の仕事は惨憺たる環境。観客は花火に夢中で誰もステージを見ていない。

 

見る目のある記者さんやら業界の大御所さんがたまたまそれを目撃して~とかわずかにステージの凄さに気づいた観客がいる~みたいなご都合的フォローもない。

 

アイドルとしては完全に大失敗に終わったままだし、テレビ業界の人にはそんな『売り物』は必要ないと断言されている。

 

だけどノクチルメンバーはその行程のなかで代替の利かないものを育んでいるし、"うちら"がアイドルとして、売り物としてダメならそれがなんなの?と。うちらは行きたいところに行くし、うちらがいればそれで万事楽しいし、理由なんてそれだけで十分なんだと。

 

俺は半ば放心していた。

 

ノクチルのメンバーは特にアイドルとしての立派な夢とか目標なんて持っていない(小糸以外)。そんな状態でユニットイベントなんかやってもせいぜいPハーレムか、そもそも開始時点から無限の関係に陥っているようなもので、すぐにマンネリ化してユニットコミュは百合クラスタ、個人コミュはPLOVEクラスタというような棲み分けがされる程度だと思っていた。

 

でもそうじゃなかった。

 

高尚な意識なんかないし身内は贔屓するしたくさんの人にそっぽを向かれても関係ない、どこまでも明け透けに好きなことをやってるだけ、ゆるい個人の連帯があるだけなのに、意味がわからないくらい心地いい気分でストーリーを追うことができた。

 

TVスタッフが顔面蒼白になる事件の時も、観客が花火しか見てない時も、その時のノクチルの温度を伝えてくれるのは雛菜の心底楽しそうなモノローグになっているのが本当に良い味出している。

 

そしてプロデューサーはその有り様を目にして特定の言葉に当てはめられないうつくしさ、輝きを見出し、彼女達にどのように光を当てるかを深く思考し始める。

 

フォロワー何万人だの、何RTだの何いいねだの、そういうのが持て囃され希求されるくそくだらねえ2020年にこういうシナリオがスッと出てくることに俺はゾクゾクしてしまう。

 

何より最高なのは、浅倉が「花火より私たちを観ろ」って宣言するところ。そう、観客なんか誰もいなくたって問題ないとは思っていないんだ。満足はしていないんだ。こんなにも楽しい"うちら"に目もくれねえやつらに対する不満はしっかりと抱えているんだ。都合が悪い部分に対し謎の光上位者目線で受け流すのではなく、泥臭い感情を抱いたままなんだ。本当にその点がいいなと思う。坂口安吾も書いたように、満足していては"ただのけだもの"になってしまうから。

 

今後もしばらくノクチルから目を離せそうにない。